昭和57年06月30日 祈願祭



 悪疫予防交通安全大祈願祭を只今終わらして頂いた訳でございますが。このお祭はどういう意義を持つのか、只今神様に御祈願をさせて頂きました、坐った途端に頂きました事は、カンテラに油一杯あっても火が灯らねばと、世界は闇とそういう御理解がございますが、全くそれと同じような事でございました。今日のお祭は言うなら油一杯入っておるカンテラに火をともすと言う様なものだと頂きました。皆さんが御参拝をなさいました。払越物を出されました。真心込めてまたお供えもなさりました。
 その事は油一杯カンテラにいわゆる入っておっても、火が灯らねばあっても無くても同んなじ様なもの。火が灯らねばと仰って皆さん達の思いごたこの形が、このお祭と言う形がその神様に火を点じた事になるとして、神様はお受け下さったんです。よく皆さん話されますけどもなかどう言う様な場合であっても、親先生の祈りの圏内にあるのだからと、確かにそうでしょう。私が朝に晩に神様にお願い致します御祈念をさせて頂きます。合楽にご縁を頂く限りに人達の上の事が、一日刻々祈られておる訳でありますから。
 その祈りの圏内の中にある言わば皆さんであります。けれどもそれを受け止めると言う事は、言うならば私の祈りがカンテラの中に、一杯油が入っておるというのであって、それを受け止めるのはやはり皆さんのご信心だと思うんです。今朝から今朝この大祓いの事を神様にお願いさせて頂いておりましたら、大きな船に沢山の人が乗っております、その船のイカリを上げる所を頂いたんです。合楽でお祓いを受けておけば無病息災、又は無事故でおかげが頂けれる。今年は丁度これは車だけの数しか分かりませんけど。
 2000台もうちょこっとで2000台と言う、1900なんぼうのお祓いをさす手頂いとります。この祈願祭には又は今年を通して、まぁ2000台は3000台になるおかげを頂かなければなりますん。だからと言うてお願いを、とにかくこのお祓いのお祭にお参りをさして頂けば、無病息災無事故のおかげが受けられるというので、さぁそれを鳴り物入りで例えば宣伝致したと致しましょうか。それではね私は成程そんなにおかげ頂けるならというて、宣伝に乗って来る人達が沢山あるかも分りませんけれども。
 結局私がなら去年、まぁ今年ですけどここに去年の祈願祭から今年の祈願祭までの1年間の間に、2000台の車のお祓いをさして頂いたが、もしならこれにいうなら不自然な、いわゆる宣伝に乗って来たと言う様なもの、これは勿論私がですよ私のもう言うならば、合楽教会の宣伝して集めたと言うのなら2000台しか乗らん車に2500台乗ったとすると、500台は漏れ落ちなければならん事になります。私は合楽の信心の素晴らしいことですねぇ。
 これは当時日本一と言われた甘木の初代安武先生ですら、親先生こうやって大祓い式が何時も毎年ございますが、これはだいたいどういう具合におかげ信者が受けるでしょうか、とある人が訪ねた。そうなぁお祓い受けんよリか良かろうと仰った。これは甘木の初代の言われた言葉です。合楽の場合には受けんとリか良かろうじゃないでしょう。絶対受けとかなけりゃいけない。そして間違いのない確実なおかげを頂かなければならない。今日なら皆さんが火を点じられたと言う事で。
 という私社協頂いた事がです、それはどう言う所からそういうおかげになって来るかと言うと、私の信心の中に濁りが無いからだとおもうです。もうどこまでも成り行きを尊ぶ大切にさして貰う。どこまでも自然を大切にする。と言うておかげを受けてもうこういうお祭こそ、合楽示現活動に参画さして頂く一番のチャンスだと、その思いを真心を言うならば隣近所にひとにでも、伝えて行かなかればおられない人達が合楽では育って、そしてその育った人達が広げて行くというこれは自然でしょ。
 例えばあのう林さんなんかは昨日毎日を参拝して見えますが。今年はどうでも村内中の方にこのお配りして回って、この話をさしてもろうておかげ頂きたいと言う願いがあった。これは林さんが言うならやむにやまれないいわゆる、合楽でお育て頂いておるしるしがその様な子達ななって現れておるのですから、これはしえん。それこそお参りした事のないいや今日参ってもってない、ただあのう車にこういろいろ書いたり、拝越ものに家族の者の名前を書いたり年を書いたりして、お願いをしときますと言うだけで。
 やはりこのこうして光を点じされた光の中に、闇が消えて光になる様なおかげになって行くのです。今年が言うならば( ? )から今年に掛けて2000台の車であったならば、だからそれが来年は2500台の3000台にもなる様な、おかげを頂くと言う事なのでありますが。んなら合楽ではいうなら私が2000台しか乗せられない船であったと言う事になりましょ。ですからそん為には私が今度はなら2500台も乗っても、びくともしない様な大きな船に、私がならなければならんと言う事も道理でしょ。
 ところが私は合楽の信心はね、道理に元ずいたおかげでなからにゃいけんのです。どうぞどうぞと言うていうならば、祈願を込めるとかお願いをするというのではなくて、いよいよ私が豊かに大きゅうならして貰う、その大きゅうならせて頂いたそれこそ水も漏らさんと言う様な、おかげの受け物が出来て初めてそれだけ大きな、又は偉大なおかげそれを漏らす事のない信心で受け止めて行く事が出来るのですから、もういよいよもって皆さんこの合楽の信心は、もう本当に成り行きを尊重し出来る信心を頂かなけりゃなりません。 それはその成り行きその中にはいろいろな事がございます。悲しい思いをする様な事もありましょう、腹の立つような事もありましょう。もう不安で不安でたまらん事柄が起こってまいるかもしれませんけれども、それをただ不安だ心配だからしんと言うておるだけではおかげになりません。そういうために私の心の中から我情が取れていく、我欲が取れて行くと言う精進なんです。皆さんお求めになったでしょうか、今こんど合楽で青年会が発会しまして丸15年に今年はなりましたので。その記念のために記念出版がございます。もう長い間かかってまようこんなのが出来たと、立派な御本が出来ました。
 そのれを私が長年御理解を皆さんに聞いてもらう、そのヒントにもなるものが御結界に坐っておる御祈念中にいろいろ頂きました事を、もう頂いた通りの事をもうこんな紙切れに書きたり、いろいろ封筒の裏に書いたりもうそこにあり合わせのものに、言うなら書いて私がためておった。ですからもうこれは皆さんに御理解の芯になったものであったり、もう頂いたものだから、もうこれはもう焼き捨てもいいですよと言うて下げておった、それを皆さん方見て、こりゃ焼き捨てるのにゃ勿体無いと言うて。
 まだ末永先生が居ります頃でしたでしょうか。それを全部一枚一枚写真に撮りましてね、まぁここだけにしたないでしょうけれどもそのう、それを残してまぁ恐らくあのう私が書いたあれは、まぁ恐らく桐箱の中に入れてなおしてあるのじゃないかと思うんです。恐らく捨てとらんと思うですね。それをまとめて今度ご本になった。信楽というご本です。信楽のこう一番初め2、3ページ目のところに、このとぉろどころにそれを写真にしたのが出ておりますね。
 その中にちょうど先だってそれをちょっと秋永先生に見たらです、まるで仙厓さんが書かれたごたるち言うて、私は絵心と言うのは全然ない絵の描き切らんのですけれども、無という字、無い、無という字をちょうど屋形船の様な感じで、こう頂いてそれをちょうどいかにも屋形船でしょう波がこう書いてある。でその下に生きても死んでも天と地は、そうでしたかね天と地は末の世までも持って行かれるましいともと書いてある。それに写真に写したらっほんによかばいというた。
 その事私はいつ頂いとったのか分からなかったんです。ところが先だって幹部研修会の時でしたが、あのう日田の綾部さんが参拝しとられます。あれは親先生ちょうど10年前に椛目の泰子さんが亡くなられた時の、ありゃ御理解ですよっちいうけん。そういやそっだたか様貴方は覚えっとったのうちゅて、そのうあのう申しました事でしたが。いうならばこの無という字が徳の船になる、その時泰子が亡くなった時にそれこそ、若い美空であってまいにちかも亡くなったと、言う事に対するまぁ御理解だったね。
 生きても死にても天と地はわが住家と思えと仰るように、例えば死んだからというてもやはり合楽の徳の船に乗って、おかげを頂いておるそと。ちょうど一週間ばかりなりましょうか、その泰子の10年んの式年祭がここで、まぁ親戚が集まって行われました。若先生が奉仕を致しましてね。お祭が済みましてから妹がお届け致しますのに、昨日椛目の内田さんの娘さんが佐賀の方へ嫁入りをしております。大変差すこと仲が良かった。それがその前の朝お夢を頂いた。それは泰子ちゃんが一生懸命英語の勉強しとる。
 そしたはぁ明日はほんに泰子ちゃんの10年の式年祭てきいとったから、というてそのまぁお供え物買い調えて椛目の方へ参拝して来たというのです。ちょうどその日はやはり合楽では今海外布教を目指して居る、先生方がアメリカの軍人の方でこちらの英語の先生をなさっておられる、方を毎月来て頂いて英語の勉強を皆さんが習っておられます。その日にですただ先生方5人か10人かの人が英語を習っておるかと思うとったら、御霊様までが習うておられるものを感じるのです。
 そしてんならあの世と言うか御霊の世界合楽世界において、まだ合楽世界に到達できない死ねない人達に、一生懸命もしそれは英語で導かなければならない人のために、英語の勉強をして居ったというのです。これはやはりお徳の船に乗り自分自身もやはりお徳を持っておらなければ、そう言う事も出来ないだろうとこう思うですね。金光様の御信心はもうどこまでもこの神徳の世界に住みたい、しかもあの世この世を通し。
 もうこの世ではしょうがないから十字架をひっかろうたまま、終わりになると言った魚うな事じゃない訳。もうこの世はもうとにかく家は因縁が深いからと言うて、因縁に縛られ落ち込んでしまうと言う様な事があって良かろうはずがない。もうこの世じゃ仕方がないけんあの世で極楽行かにゃとゆっても信心じゃない。この世で言わばこれが極楽であろうかと思われる様な世界と言うのは、それこそ百味のおん直に安気安穏に過ごせると言う事が極楽はない証拠に。
 もうこの人が何処にいやぁ不平不足があるだろうかと思う様な、すべての点に例えば恵まれておる人が、不安で不安で年を取るに従って不安心配が募って来るばかり、不平不足はもうそれこそ不平不足を馬鹿らしかごと言うて、不平不足を言うておって果たして極楽だろうか。極楽と言うものはねどういう中にあっても有り難しの心、私は昨日ちょっと驚きました。昨日は敬親会ですから、まぁこういうお年寄りばっかりの信心研修なんて、もう恐らく合楽だけでしょうね。
 それが皆んな80、90何歳と言う方達ばっかりなんですよ。昨日はもう一人一人がそのう発表なさいましたがもう驚いてしまった。まるっきりお婆さんと言うよりまるきり教学者のような話をなさいます。その最後の千代田さんのは発表なんか聞きよったらもう、もうなんか知らん胸が篤うなる思いがした。表に出とりますと真っ赤な花が咲いとります。松は緑で生き生きとして新芽を出しとります。孫達はもう笑いただみちして元気なおかげを頂いております。
 もう見るにつけ聞くにつけただもう有り難いばっかりです。毎日そのお礼参拝をさしてもらわにゃ居られませんていう。もう見るもの聞くものに全てにお礼申し上げなければ居られないと言う所まで育つと言う事心が。本当にあなた方の場合は信心をすれば一年一年有り難うなると仰せられるが、信心をすれば年をとるほど位が取る物じゃと仰るが、皆さんの話を聞いて私はもう驚いた。位が着いておられる。私はこりゃ何時もそうなんですけど、こりゃお世辞じゃないですと言うて昨日皆さんに話したんですけれども。
 会合が沢山ここではありますけれどもあの敬親会の方達の、お婆さんたちが集まる会の時にゃなんか心ときめく思いがするんです私本当に。どういうことでしょうかね私はそれこそ恋人合う前ならなんかこうときめきを感ずる。そして昨日なんか皆さんの話をきいて、こう言う人達が集まって来るんだから神様が喜び、神様が心ときめかしょんなさるなぁと言うものは字㏍んしました昨日は。
 もし私に合楽と言うお教会が無かったら、ご神縁を頂いてなかったら今日の私はないと言った様なお話で終始しましたが、信心の心と言うものがこのお年寄りは皆んなおかげを頂いておられるな。これは私がもう2、30年にもなりましょうか、初めて大阪の伊藤こうという女のえらい御神徳を頂いた先生が居られます。阿倍野教会です。もうまいりまして驚きましたここのお手洗いのようなのが、教会の入り口の両脇から入る。両脇から両方にお手洗いが出来ます。
 とにかく月に2000名の方達が御本部参拝をなされるというのですからね。先だってからも丸少大会があったそうですが、300名の丸少が集まったといわれます。しかもその300名のその丸少達の大会の中で丸少の人達がね、もう堂々とおかげ話をするというのにまた驚きました。私はその話を聞かせて頂いてこれは合楽教会のお年寄り、敬親会にでもまたは日参でもなさっておられるお年寄りの方達の場合は、もうそれこそ堂々と自分の助かっておられる状態を、しかも誰にでもわかるように話をして行かれる。
 その話を聞いてその丸少ですら、おかげ話が出来るじゃなくて、もう言うならば普通で言うならば、もうぼうけとっちゃよかごたる人達ばっかりね90からでは。90幾つと言う方達が何人も居られる。これは例えば石川のお婆ちゃんたちのいうに、私は今燃えております。っていわれる。しかもそれが有り難い有り難いを求めての信心です。合楽にご縁を頂いたなかったらとても頂けない、言わば信心をこの様にして頂いて、おかげを頂いておられる。
 こりゃ阿倍野の丸少がおかげ話をするという、もうとにかくお年寄りというたら嫁の悪口であったり、もう早う死んだ方がましと言った様なね愚痴話を聞くのがおちですけれども、合楽の年よりは違う。とにかく生き生きとしてその喜びのまぁ段階を追いながら、いよいよ有り難うなっていうなら信心の位を頂いて行っておられる様子を、私は昨日見た感じが致しました。そのう信楽の中にあるそのえじゃないですけど、無と言う字をちょうど屋形船の様な感じで書いてある。
 本当に私共が無の世界に入らなければ、その御神徳が頂けない極楽行ができんということではないのですね。金光教の信心は。はぁやっぱり仏教たぁでてこんというのは、本当にあたしむどにある。ところがねいわゆる我情我欲を放れてと仰せられる、良くはあってもいいんだよ、情を使うてもいいんだ。今日は親教会の方でも午前中にこのお祭があっておる。このお祭と言うのもちょっと性格的に違う、今この大祓式というものが教団ではもう全廃になりました。
 それでもやっぱり古い教会はやっぱりそのう、あのう祓越ものやらをねちょっと祓わにゃ気分が悪いと言った様な事でされて、名前を殆どのところが半年のお礼お詫びのお祭りと言われております。本当になんかぁこう有り難い感じがしますけどもね。この頃の合楽ではもうお礼お詫びではいけんということになっており願いである。いわゆる大祈願である。合楽の場合にゃ大祈願祭なのである。そげぇん沢山でとるなら私しゃ困ると仰る神様ではない、願っておかげを受けてこそ神様がお喜び下さるのです。
 私が今御神前で1時間20分ぐらいの御祈念をします。控えで30分しますからいわゆる小2時間の御祈念。もうねそりゃ願いばあぁっかりです。もう一番最後にお願ばっかりでと言いうてまぁお願ばっかりですいませんと言うお詫びやら、お礼のたびにお詫びやらはもうほんな一言二言です。皆さんが言うなら一人一人のことを私が御祈念さして頂いて、私は御祈念と言う事はいちいち神様がね、そこを合点下さらなければほんなことじゃなかったので、ほんなら言うならまぁおざなりのこと。
 ぽんぽんと手叩いてもうそれで拝んだ積りでよか、私はぽんぽんと手を叩いて拝む時でも神様からずっとこう合点した頂かなければやめません。そのためにあのうそのためじゃないけども合楽ではあのう五つの願いがありまうすね。どんな場合でも御神前に向って手を叩いたら最後これだけは願えと言う、お詫びやお礼じゃない。願え必ず願え。皆さんも繰り返しておられると思ます。まず言うならば体の丈夫を願え。家庭に不和が無きが元と仰る家庭に不和がなきを元を願っている。
 家繁盛、子孫繁盛を願え、どうぞ御用にお使い回しを頂きます様に、神様の言うならば手にも足にもんあらせて頂く様な、言うなら御神願成就のための願いをさして貰います。そえっを私はどんな場合であっても、その事だけは祈りますから、祈っておいて心が神様にはつぅとこう通うて来る。そしてお礼を申し上げたらお礼を聞いて下さり、お詫びを申し上げたらお詫びを聞いて下さるという。心に感情を頂かなければ私は御神前を放れません。どんな簡単な御祈念でも。
 ただ柏手打ってもうそれで拝んだ積りでおるけんいかんです。私はこれで毎日修行生の先生方がご神飯をお供えして下げる時でも。もうつぅといってからご神飯下げたことからね、これが私はそげなことじゃでけん、下げてもよいかどうかをお伺いしてさげらにゃ。まぁだ今食べござるところならどうするかち。まだ食べとらんがちゅうて今食べござる様な感じがする。もうご神飯下げさして貰らえる下げても良いと、神様がいうならば口や心に響いてくるおかげを頂いてっから、ご神飯下げると言う風にまぁ申します。
 金光教の信心だいや合楽の信心が、その気になれば誰でも出来るんだと、子供でもいやその気になれば出来る。ご理念にもとずく生き方と言うものはみやすいんだと、もうそれこそそれが段々実験実証が付いて来ると、もう有り難うなって楽しゅうなっていく。愉快に冴なってくる天地のリズムがひかえて来る様になる。そのリズムに乗っての一日であると言う様なおかげを頂くために。いよいよ御理念の尊重でありその芯であるところの、いよいよ成り行きを尊び尊重させて頂く生き方。
 それを自分の心情とする。自分の血に肉にするということ。始めの間はなんかこうまぁ面倒くさいけどが、そう徹底しとるけれども私は神力が結局徹底する事なんですからね。今日熊本からと言うて日田の国師さんの、なんかお導きだったそうですが始めて参って来たんです。この秋に結婚するはずじゃったところが、相手の人が又好きな人が出来た。そしてもう分かれてくれとこう言われる。いんにゃ分れんと言うそんならまぁ一年待てとこう言われる。なら一年待ってどうするか。
 一年の間にお花の稽古お茶の稽古しておけとこう言われる。そんならもうそこへ嫁さんならばそりゃまぁ人間ですから、いろんな関係が出来ても来ましょうけれど、そのことをお願いしときゃおかげになると私は。ところが実はそのうお腹の赤ちゃんをまぁ出来た結婚前に。いわゆる婚前交渉があっとった訳。それでそれを流してその後にいうならと、水子の祟りやらの事をとにかく心配で堪らん。それで私はそんの時申しました。
 相手の方が言うならお茶やら花の稽古をして、その後に結婚すると言荒れるなら例えよし嘘であってもいいじゃないかと。そしてあなた方の関係が有り難い関係になって、もちろん無事を私がお願をした。あなたはお茶やお花の稽古をするつもりで、自分の心をもっと豊かに大きく出来るためのお花の稽古をするぐらいな気持ちで、自分の心の使い方をその稽古なさい。で熊本からですたかまつじゃからお参りもあるし、たいして遠い所でもないから、良い時間を作ってはお参りをしておいて少し信心の稽古をなさいと。
 まぁ申しました事ですが。本当にこの人が一年後に、また言わば結婚が出来るようななった時にどう思うだろう。あぁいう忌まわしいとか歯がゆいっかったとか、問題があったおかげでです花やらお茶やらじゃない、言うなら心を有り難い有り難いで使う事の稽古の、いうなら出来たと言う事はなるほど、そういう事件とか問題と言う様なものも、本当に御神愛であったと言う事が分かるだろうと思います。私は金光様、合楽の信心はそうだと思います。どう言う事があってもいい。
 けれどもそれを通して私共が言うなら、いよいいよここらが我情を取る所だ我欲を取る所だとして、おかげを頂いて行く。人情を捨てて神情に行き抜かして頂く、そういう稽古をさして貰う時に私は、徳の船にもっというならこりゃ自分をむなしゅうしてしまうと言った様なもんじゃないんですね。なくなると言う事じゃない。情はあって良し欲があって良い。そしてその徳の船にはぁこれがお徳というもんだろうかと、心に実感できるような昨日お婆さんたちの研修会での発表じゃないですけども。
 年を取るに従って一年一年有り難うなって行くと言う実証を、形の上にも心の上にも頂かしてもろうておかげをいただく。そういう心の人達があつまって今日の大祈願祭が仕えられます。それはカンテラに油化一杯ある、それに火を点じた様なものとして神様わあ受けて下さった。成程信心のない人達のここの場合は祓越物を皆んなことづかって来とんなさるでしょうけれども、皆さんが点じたその光に潤うことが出来るのでございます。皆さんが今年言うならば10人のお導きが出来たなら。
 又それが10人次のいわば広がりを願って行く為には、まず自分自身の言うなら心の光がもっというなら光の輪が大きくなって行かなければならないでしょう。その光の輪をいよいよ育てていく信心それを御理念による生き方なのだから頂けて来る。信心が育つと言う事は結局そう言う事だと思うのです。今度もいよいよま又無病息災を無事故のおかげ、を願わせて頂いておってもやはり雨になるか風邪になるか分かりませんけれども、その雨風を本当に有り難く受けられるジンジンを頂いて。
 今朝からま頂きますなら今年は2000人乗りの船であった、合楽のご信心のお徳と言うものが来年は3000人乗りの船になる様なおかげを頂きたい。言うなら大きなおかげを頂きたい。為にはいよいよ私自身がもっと力を頂き、もっと豊かに大きゅう育たなければならない事は勿論です。為には本当にそのはぁそんなこたぁ困るじゃなくて、是こそ自分が頂かんなら大きくなる為の手立であるとして、間違いないですからその手立であるとして、それを受けていく生き方をいよいよ身に付けて行かなければならない。
 いよいよ御理念による助かりいよいよその芯ともなるところの、御理念による信心生活ね、土の心が7分なら天の心が3分というふうに言われますから、天の心とはいよいよ限りなく美しゅうなる事だと、潔い心を作って行くんだと言われるのですから、そういう信心も共々に育っていく様な在り方。なぁんにもせんよう報いてと言うだけで、様々な事の中からいよいよ信心を頂いて行くおかげを頂きたいと思います。先ずひとつ迷い信心を先ず打破しなければいけん。
 今日も参拝してる宮崎の方から参って来ております、娘がある事に迷うてある宮崎のまぁ拝み屋さんの所におまいりをした。ならわざわざ宮崎からか、延岡ですかね古谷先生のお導きで参って来てその方がお届けしとりますが。なら程来てから仏様をまつるばがいかん、神様を外に出さにゃいかん、まぁいろいろお祓いをしてもらったりしてから、そしてから30万円要求されておりますとこういう。もうビックリしてからなからかんそんな金はいらんと思いよったところがね30万要求されておる。
 まぁそういう部類の私は信心じゃないと思うねそれは、まるきりあのう脅迫されておる様な感じね、先ほどちょっとございましたが例えばあの水子供養なんかと言った様なことでもね、この天地金乃神、天地金乃神と申す事は氏子おって、天地の神の大恩を知らないと言う事が人間のそもそもの難儀の元であると教えられます。天地金乃神と申す事はとこう御理解3節にそれこそ大音声をもって、皆んなに呼び掛けておられるようですけれども、その大音声が聞こえない。
 合楽でいつもこの御理解を頂くと、その天地金乃神様と言う事はと言う事になると、リズムも無からなければ日柄もなからにゃ方角もない。いやむしろお礼を申し上げる事ばっかりなのに、いわゆるお礼とかお詫びとかで終わってしまう様な事ではいけません。どこまでも天地金乃神様のお心が分かっての願いの信心。いわゆる大祈願祭の精神である。じゃ天地金乃神様のお心をいよいよ心とするためには、先ずは天地金乃神様の御心がより深く広く、分からして頂かなきゃならんと言う事になります。
   どうぞ。